Histories of Mt.Yokote 聖地・渋峠ホテルの歴史と私スキ

2020.08.07

自家用車で行くことができる日本でもっとも標高の高いホテルが「渋峠ホテル」です。なにしろ、日本国道最高地点ですから。その歴史は昭和26(1951)年にできた避難小屋にあるそうです。

昭和26年といえばサンフランシスコ講和条約が結ばれ日本が独立を回復した年です。戦後の混乱が落ち着くと人々は次第に余暇を楽しむようになりました。第1回紅白歌合戦(1月3日なのですね)が開かれ、黒澤明監督作品『羅生門』が封切られたのもこの年です。山登りや山スキーに出かける人が増え、遭難事故も多発。そのために避難小屋が建てられたのだそうです。その時、父親から管理を任された兄弟の末っ子が、現在も当主を務める志賀高原のレジェンド、児玉幹夫さんです。

モノクロの写真が昭和30(1955)年頃。まさに山小屋。雪の量にも目がいきますね。もちろんゲレンデはありません!「道路が通じているのは硯川(横手山のいちばん下部)まで。硯川から物資を担いで持って帰るんだけど、<のぞき>から渋峠ホテルまでは歩くための細い道があるだけで、滑落しないかビクビクしていたな。いまスノーシェッドがあるあたりはよく雪崩やがけ崩れがあったからね(笑)」

昭和40(1965)年、かわいい青い「渋峠ヒュッテ」を新築。札幌オリンピックでスキーブームに沸く昭和47(1972)年の写真を見ると現在の「長野県側」だけが増築されて、ヒュッテ時代の建物と共存しています。志賀高原が爆発的人気となり、増築を重ねて現在の「県境の宿 渋峠ホテル」となったのがよくわかりますね。

昭和45(1970)年、草津高原ルートが開通し、渋峠は日本国道最高地点として自転車乗りやバイク乗りの聖地となり、現在に至ります。そして昭和62(1987)年、映画『私をスキーに連れてって』の重要な舞台となった証拠が、この記念写真。原田知世さん、なんとかわいいこと!

これらの写真は、いまも「県境の宿 渋峠ホテル」に飾られています。渋峠ホテルに泊まったり食事をお願いして、暖炉のあたりでレジェンド児玉幹夫さんに写真を見せてもらいながら昔話を伺うのも、オススメですよ。

お盆期間の山頂へのルートは2パターンあります。くわしくはこちらをご覧ください!